第一次世界大戦、第二次世界大戦では帝国主義が武力の形で表れて衝突した。
第二次大戦以降、世界規模での大戦は避けられるようになったが、国際武力衝突は今でも続いており、そのたびに批判の的になる。
批判を避けながら、植民地支配のような覇権争いを続ける方法はないものか。
武力以外の形で覇権競争を実現したのが、経済と文化を利用した帝国主義だった。
マクドナルド、スターバックス、ネスレなど、各国に同一形式で提供されるサービスは、どの国に訪れても均質的なサービスを提供してくれるという点で安心感と利便性を向上した。一方で、出自の文化圏の人々にとって、勢力圏を静かに拡大していく隠れた橋頭保でもあり、進出先の現地の文化を徐々に風化させていく装置でもあったと解釈できる。
そのような特性が1990年代にあらわになった時点で、経済や文化による帝国主義もまた批判の的となった。世界大戦の終わりから45年後であり、2026年現在においては36年も前のことだ。
36年もたつのであれば、別の形の帝国主義が密かに蔓延しているのではとも思う。もしくは、私が不勉強なだけで、すでに学説としてはいくつか別の形式の帝国主義が発生しているのではないかと思う。
ということで、勉強がてら少し検索をしてみたところ、おそらく現代の形式はこれであろうという Labor Imperiarism, Digital Imperiarism はすでに冷戦期に提唱はされていたようだ。
Digital Imperiarism がより現実味が高いものとみており、インターネットの普及、各種デジタルサービスの普及で一定地域からのサービスが世界を席巻している様相はまさに帝国主義の様相と思う。一部デジタルサービスの席巻は誰もが体験をしているところだと思うが、この特定サービスの席巻がもたらす副次効果として、労働様式の画一化が出現しているように思う。Digital Impriarism からさらに Labor Imperiarism が発生し、経済の根幹たる労働が一定国家・文明・商圏の様式に画一化してきているのではないか、と思っている。
労働様式の画一がもたらすものが善か悪かはわからないし、いずれの立場をとるつもりもない。ただ一つ明らかに発生すると思える事象は、画一化された労働様式に乗っ取らない労働様式の排斥である。労働様式の植民地化が進み、一定様式の労働形式でなければ世界(=植民地化を進めて巨大化している一部国家・文化・商圏)に通用しないという世相が出現しているように感じる。
転職が流行し人材流動性が高まることは、土着・文化由来的な労働様式を弱体化、しいては排斥させることにもつながっている。この構造化で強くなる人材とはすなわち、植民地化を進めて巨大化している一部国家・文化・商圏の労働力なのである。
私自身のキャリア形成は、いわゆる西洋的・”論理的” な思考体系に基づく所が多く、これは顕著に米国式の労働様式と思う。経済的な便益で有意義と感じる年次の積み上げ方を体験してきたものの、帝国主義的発想を助長させる所作に一助していると気づいた今、はてさてと思い始めている。
しかし、個人がはてさてと思ってももはや遅すぎる感もある。デジタルならびに労働様式の帝国主義は速度を増して、一部の超裕福層が世界の富の大部分を占める構造となってきた。水面下の侵略をせずとも、国家・文化・商圏が金銭で買収できてしまう領域まできてしまっている。富のありようが暴かれ(ハックされ)、不必要に肥大化し、一定層に遍在する様相となった。富の様式もまた、帝国主義の脅威に晒され、いつの間にか敗北していたのだと気づかされる。
あらゆる様式が正しい手続き(=買収)で侵略され、効率性の名のもとに排斥され続ける世の中。この世の中で、自分を守る手段とは何があり得るのだろうか。
法に頼るのならば、独占禁止法や類似の法規で対応可能に見えるものの、超国家のデジタルサービスにおいては国家間での司法対応が異なり、結果として侵略を許してしまっているように思う。法には頼れないということだ。
かつての帝国主義は、異なる国家の連合が、武力で衝突しあい、勝敗がついた。
今の世の中に、世を席巻する者たちに抵抗し得るような、同等以上の巨大さを持つ存在はあるのだろうか。(いや、ないだろう)
正攻法的な戦い方では、新時代の帝国主義には抵抗できないような気がする。過去の帝国主義が、特に自分がその中で生活をしているのであれば、気づくことすらできない環境であったように。